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​阿部知二

  • 1903年〜1973年

  • ジャンル: 小説家・英文学者・ 翻訳家・評論家

  • 出身:岡山県英田郡美作町

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  • 英文学を専攻するかたわら創作に励み、1930年、モダニズム文学の旗手として華やかにデビューする。同じ年に発表した『主知的文学論』は私小説中心の日本文壇に一石を投じた。1936年の『冬の宿』など、戦前は、不安な時代に直面する知識人の憂愁を描いて支持を得、戦後は戦争体験の反省から平和のために行動する知識人として積極的な社会参加を展開。

  • 中国との関わり:阿部知二は生涯六回中国への旅をした。①第一回目の中国への旅は1935年9月1日から13日までの二週間の間で、北京と旧満州を歩き回った。②第二回目の中国旅行は1939年4月23日から5月20日のほぼ一ヶ月の間で、旧満州の新京・奉天・承徳を回って、北京についたという。③第三回の中国旅行は日本文学報国会の派遣によるものであり、1943年10月下旬から1944年2月までの約三ヶ月の間で上海及びその周辺地域で巡回講演などをした。④第四回の中国行きは1944年9月から1945年4月までで、上海セント・ジョンズ大学の講師として上海に滞在した。⑤第五回目の中国旅行は1954年の秋からの三週間であり、中国学術文化視察団の一員として北京及びその周辺地域・上海・西安を訪問した。⑥第六回目の中国行きは1964年12月12日からの一ヶ月の間で、日中友好団(日中国交回復三千万署名運動東京都各界代表団)の団長として北京・上海・杭州などを訪問した。

王成「中国旅行とテキストの生成――阿部知二の作品における旅の表象」『日本学研究』(23)、2013年12月や紀行などを参考。

  • 中国が舞台の小説に『燕京』(1937年)・『北京』(1938年)・『大河』(1947年)・『隣人』(1947年)・『陸軍宿舎』(1947年)・『緑衣』(1948年)などがある。

  • 北京紀行:「支那の眼鏡」(1935年)・「北京雑記」(1935)・「美しき北平」(1935年)・「北平眼鏡」(1937)・「新しい中国から帰って」(1958)・「中国の女性たち」(1958)・「近代と日本と中国ー中国での見聞ー」(1965)・「中国の首都北京」(1965)・「中国人と生活・楼上から北京を見る」(1971)

阿部知二と北京

八達嶺長城

城壁の一角で驢馬から降りて、壘(とりで:外敵の攻撃を防ぐための建造物、要塞)の背を險しい角度で八達嶺にのぼるわけだが、吹きつける烈風に足を取られさうで、「壮大な風景」の感慨にふける餘裕もなく、寒さは夏服を透して骨に沁みた。(中略)とにかく、此處は眼のかぎり、暗灰色の曇空と激しい風の中に、褐色の山々の浪と、黄色の高原とがどこまでもつづき、長城は鈍い石の光りを発しながらやはりどこまでもつづいてゐる。山の褶(ひだ)には、駱駝が寄りかたまつてゐるのが蟻のやうに少さくみえた。

(阿部知二「北京雑記」『セルパン』、1935年11月

雍和宮

熱く乾燥した日だった。K君と市の北東隅に行って喇嘛寺をみた。元の宮殿を蒙古人懷柔のために寺に仕立てたのだといふが實に巨きな殿が奧にと涯しなくつづいてゐる感じだ。建物はけばけばしい色彩のまま乾燥しながら朽ちはじめて輕い化石にでもならうとするやうに白日にあへぎ煌めいてゐた。屋根の瓦にも石甃にも、割目ごとに雜草が伸びほうけてゐた。內部の闇の中には、奇怪な像や繪畫がうすうすと光つてゐる。淫猥なものは黑い布で蔽つて、陰氣な蒙古僧が、百萬圓吳れても蔽は取らぬと、金をつかませようとしたK君にほざいたが、格別見なくてもよからう、慘忍な繪畫などはそのまま出てゐるが、人間の頭で、出來るだけ醜怪な、出來るだけ慘忍な、出來るだけ淫猥な夢を描いてみろ、といつたらこの無數の涯しない像と繪とが、その究極的な答案になるのであらう…

(阿部知二「北京雑記」『セルパン』、1935年11月

 

事實、市の東北隅の一廓、喇嘛廟(雍和宮)のまはりには蒙古人がいまも多く住み、店の招牌にも蒙古、西蔵語(チベット語)が漢字と並んでゐた。ここと中央南部のエキゾティクな大公使館區域とはいい對照であつた。――それにしても胡同にもまして私の気に入つたのは、遂安伯、無量大人の名であつた。さうした人が嘗て住んでゐたところからついた街の名だらうときいたが、何といふ悠たる、都雅な(とが:上品で優美なさま)、人の名、街の名であらうか。

(阿部知二「​美しき北平」『新潮』、1935年12月。)

 

孔子廟

孔子廟はここから雍和宮から)直ぐ近い。柏(カシワ)の樹が深くしげり、建物も支那にしては簡素で典雅であり、中には位牌と、禮樂の具が置いてあるばかりだ。やはり草はしんしんと生え、階は朽ちかけてゐた。私は頭を下げて禮をした。これは喇嘛廟の反動かもしれなかつたが、たしかに北平にきてはじめて出逢つた淸らかな感じであつた。孔子たちの敎は、今の支那にとつて有益で適切であるか、それを行ふことは支那人を進步させるかどうか、それは知らない。しかし、あれは、とにかく支那人が創造した百般のものの中で一番淸淨な精神であるとは感じられる。

(阿部知二「北京雑記」『セルパン』、1935年11月

景山北海・白塔

はじめの日の午後、市の中央の景山にのぼつてみると、廣原の中のこの宏荘な舊都(旧都)が、目のかぎり濃緑の大樹に蔽はれて、その間から宮殿の甍が黄金と碧緑とに煌めきわたつてゐるのをみた。北海といふい池のほとりの純白な囘教塔(回教塔:北海公園にある白塔)のうへからみても同じである。北海の水は清らかで、楊柳(ようりゅう:やなぎ)は深々と枝を垂れてそのまはりに茂り、蓮は汀にちかく一面に水をかくしてゐる。青年と娘がボートを漕いでゐる中をわけて畫舫(がぼう:美しく装飾を施し遊宴のときに乗る中国の屋形船)でわたるころには私はもはや同船の支那人の真似をして瓜子(グアズ:ヒマワリの種を加工した食べ物)を噛んでは水にすて、うとうとと水にうつる樓臺の影に見惚れてゐた。それから池のまはりを散歩してゐるうちに、窓は紅と黄になり、樓臺と揚柳とは何ともいへない美しい色になり、そのかげから、日の沈む方の西山が眞紫に輝いてゐるのをみた。

 (阿部知二「​美しき北平」『新潮』、1935年12月。)

王府井

夜になると、王府井大街には銀座のやうに美しい人がむれてゐた。永く北平にあるMはしきりに銀座を想ひ出すといふが私はそれどころでなく、東華園といふ店で老酒をのみ、鶏の血を煮こごらせた汁をすひながら、この短い滞在の間にどうしても支那の匂を一杯に身に吸ひ込んでやらうと勇み立つた。

(阿部知二「​美しき北平」『新潮』、1935年12月。)

紫禁城円明園

紫禁城に次ぐ宮殿の群が西山に近い野にあつて夏宮となつてゐた。圓明園といつて三十の殿堂と塔と橋と池と泉とをもち、之に寶物を滿たしめてゐたが、團匪事件(団匪事件:団匪とは団結した匪徒の意で、義和団をさす。1899~1900年、中国清朝末期におきた反キリスト教的排外運動)のとき歐州の軍隊が侵入して、減茶滅茶に奪掠し、それから火をつけて燒いてしまつた。煙は二日の閒北京の空を棺衣のやうに蔽つたと記錄されてゐる。これは、かれら白人が勝誇つた殘酷さで燒いたといふよりは、その惡夢のやうな大怪異な美麗さに氣が變になり心が痺れてしまつて、やけくそになつて、火をつけてしまつたのだらうと私は想像するのである。殘つた紫禁城を、民間政府は北平市に移管して、市は料金をとつて一般に觀せてゐる。淸朝の皇帝や嬪妃の寢所や書齋や化粧室までもみせてゐる。しかし、時々の急の修理がやつとのことで、完全な保存などは出來ないのであらう。紫禁城の內廷には、勁草(けいそう:風雪にたえるつよい草)が石を擡げ(もたげ)てゐた。周作人氏にあつたときそんな話を持ち出してみたが、やはり何百年の後にはこれも崩壞するのではなからうか、といふことだった。

(阿部知二「​美しき北平」『新潮』、1935年12月。)

万寿山盧溝橋

西郊の初秋の一日のドライヴは、美しい想出にみちてゐる。萬壽山、西山一帯の名だたる名所もよかったが、それよりも心に殘るのは、その西郊一帶の田園風景であつた。萬壽山近くでは、まだ少年のやうな支那兵が埃を浴びて調練してゐるのもみたし、西山の赤埴(あかはに:赤土)路では、昔乾隆帝が全軍を閱したといふ望台の近く、トラックにのつた日本兵の演習ともすれちがつた。それから南にドライヴしてゆくと、まつたく長閑かな農村のながめで、水車を曳いてゐる驢馬や、黑い豚の子が、高梁のかげにみえ、駱駝の鈴が悠長に竝木路にひゞき、裸の子たちが泥水に浴びてゐた。蘆溝橋には行かなかつたが、萬壽山か西山かで、その美しい橋の寫眞に見惚れて買つた。マルコ・ポーロが、「おそらく世界で最美の橋」といつてゐるが、あの大旅行者がこんなことをいふのだから、私が北平に一見惚れしたことに無理がなからう。

(阿部知二「北平眼鏡」『文藝』(第五巻下)、1937年9月)

中山公園

 馬車はいつのまにか中山公園の前に停つた。

 (中略)ただ平坦な土のうへに、すくすくと輝きが生えてゐて、その枝の茂みはつらなりあつて月光を遮り、その下はぼんやりとした闇である。そして、その蔭の、太い幹と幹とのあひだに、粗末な藤椅子と卓とが、地べたに置かれて、それが何百米とつづいてゐるか分らないのである。この大まかな光景がまづ大門をおどろかせたのだが、それからよく見ると、その際限なくつづく樹下闇の席には、無数の人間が、ぼんやりと坐り、茶を啜り、煙草を吹かしてゐるのであつた。それぞれの席で談話してゐるものもあるのであらうが、あまりにのんびりとした空気のなかで、その物音もきこえね。

(阿部知二「北京」『阿部知二全集』(第二巻)、河出書房新社、1974年、357-358頁。)

昭和文学で旅する北京

九州大学地球社会統合科学府

蘇冠維

*本サイトは、九州大学大学院未来共創リーダー育成プログラム(GIPAD)の支援によって作られたものです

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