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東交民巷

原名の東江米巷がなまって東交民巷と呼ばれるようになったという。第2次アヘン戦争以来、ここに置かれていた各国使館は1900年の義和団事変に際して義和団の攻撃目標となった。事変後に締結された北京議定書によって公使館区域がこの地に設定され、各国の護衛兵が駐劄(ちゅうさつ:駐在)することになる。ヨーロッパ風建築物のたち並ぶ東交民巷は列強による中国侵略の象徴的存在であり、その状況は1949年の中華人民共和国の成立までつづいた。

(『世界大百科事典 第2版』による。)

東交民巷の過去と現在

1942

2023

今昔対比写真

昭和文学で旅する北京

九州大学地球社会統合科学府

蘇冠維

*本サイトは、九州大学大学院未来共創リーダー育成プログラム(GIPAD)の支援によって作られたものです

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