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開高健

  • 1930年〜1989年

  • ジャンル: 小説家

  • 出身:大阪市

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  • 大阪市立大学法科卒業。戦後派文学の流れをくむ新世代の代表的存在で、敗戦のもたらした飢餓体験を原風景として執拗に抱え込んでいる作家の一人。サントリー宣伝部に勤務し,のち広告会社経営,コピーライターとして一時代を画す。1957年《裸の王様》により芥川賞,戦後文学の担い手の一人となった。ベトナム戦争を取材してベ平連の中心となるなど,旺盛な行動力で知られた。主著《パニック》《日本三文オペラ》《ベトナム戦記》《輝ける闇》《夏の闇》,釣の紀行文《オーパ!》,《開高健全作品》全12巻など。

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  • 中国との関わり

1960年代、日本国内では米国のベトナム侵略戦争と日米安保障条約戦争や日米安保条約に反対する闘いが激化した。この時期に、開高健は積極的に市民運動に参加する一方で、ベトナムへ取材に行って『ベトナム戦記』(1965年)や『輝ける闇』(1968年)などの作品を執筆した。彼は太平洋戦争の被害者としての視点からベトナム戦争とその犠牲者を見つめ、米国のベトナム侵略の罪を暴いた。また、この時期に、中国、ルーマニア、チェコスロバキア、ポーランド、東ドイツなどを訪問し、報告文も執筆した。(筆者訳)

(唐月梅「开高健」『世界文学』、1983年、234頁。)

1960(昭和35)年5月30日~7月6日に開高健は、中国人民対外文化協会と中国作家協会の招待をうけて野間宏、竹内実、松岡洋子、大江健三郎、亀井勝一郎と共に中国訪問日本文学代表団の一員として訪中した。日程の大半を北京で過し、ほかに上海と蘇州も訪れている。人民公社や工場の視察に関する記述は少く名所旧蹟、風景、街の様子が文学者の豊かな表現でよく描かれている。なお日本では新安保条約反対の運動が最高潮に達した時期なので、旅行中どこに行っても誰と会っても『反対美帝国主義』が話題の中心となった。そのため文学関係の人達との接触が多かったにも拘らず、文学を論ずる時間的余裕がなく、紀行『過去と未来の国々――中国と東欧』も著者自身の文学論を述べるだけに終っている。

(『明治以降日本人の中国旅行記(解題)』、148-149頁を参考。)

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  • 北京紀行:『過去と未来の国々――中国と東欧』 (1961年) 

開高健と北京

王府井

 北京の銀座王府井へ散歩にいった。合歓木の並木道の両側にたくさんの店舗がならび、毛皮、宝石、骨董、新刊書、食料品、服飾品、などを売る店がひしめいている。百貨店もある。いたるところに塵芥箱と痰壺がおかれ、舗道には紙屑もタバコの吸殻もおちていない。北京の街を散歩するにはポケットへ灰皿を入れておかねばならない。女性は割れの中国服もあればスラックスもあり、スカートもあれば工人服もある。口紅をつけているのもいるし、つけていないのもいる。断髪、パーマネント、お下げ、お河童、さまざまである。男は開襟シャツ姿が多い。眼鏡とカメラをとれば私は「群集のなかの一つの顔」になってしまう。新宿の人びととまったくおなじである。「氷棍」(アイスキャンデー)と「汽水」(オレンジエード。天然ジュースにすこし炭酸ガスを吹きこんである。中国産の柑橘類を皮も実もいっしょにつぶしたもので、甘く、さわやかである)の屋台には長い行列ができ、みんなは口によこぐわえにアイスキャンデーを頬ばりながら道を歩いてゆく。痰、唾、手洟、立小便、ゲロゲロ、水溜り、ハエ、ノミ、蚊、いんきん、田虫、ひぜん、じんましん、残飯、ジャズ、タクシー、道路工事、広告、なにもかも、いっさいがっさい一掃したらしい。きれいさっぱり、なにもない。ないといったら、なにもない。ほんとにない。黄昏の迫る薄青い空気のなかに合歓木の鮮烈な香りがただようばかりである。

(開高健『過去と未来の国々・中国と東欧』岩波書店、1961年、35-36頁)

歴史博物館

 北京には故宮(紫禁城)や、天壇や、万寿山など、過去の王朝の壮麗な巨大建築物がおびただしくのこっている。歴史博物館や人民大会堂をつくった衝動は中国共産党の過去に挑む自尊心のそれだ。けれど、歴史博物館では考えさせられた。

この館の時代区分と出土品の陳列順序はマルクスの言葉に従っている。正面入口の大屏風に金字で宣言がかかげられている。「人類の歴史はすべて階級闘争の歴史である」。とくに美術的価値のある古代の青銅器や壺などには美学的解説がつけられているが、文字をたどり読みしてみると、その評価の基準になるのはすべてそれらの制作物がいかに同時代の人民の生活を切実に反映しているかどうかということである。階級闘争史が一つのきわめて有力で機能的な時代区分法であり、歴史の裁断法であり、いまの中国の熱情が茫漠と流れかすむ時間と破片の大な堆積のなかをさかのぼろうとするときには当然その巻尺を持つだろうということは予想できるけれど、それですべてが片づくとは感じられないのだ。とくに芸術について、美については。唯物弁証法はいつも鉄骨建築のように堅固な論理で対象に肉迫し、圧倒するけれど、そのたびに美は不逞さと優雅の風丰(風丰)を帯びて光栄または糾弾の灰のなかからたちあがり、勝ちのこるではないか。生活の反映だけですましていることはできないはずだ。熱情が衝動からぬけだし、渾沌の活力が静かな塑型に満足することを知った日に、これらの解説には隠微な変化が起るのではないだろうか。十年後か、二十年後かは、わからないとしても…

 しかし、それをこえて中国の歴史の肉の厚さがあらためて私を圧倒した。いまさらのようにここへくると中国の歴史が北京原人からはじまっている事実を教えこまれるのだ。この小学生級の知識を疲労たっぷりに足で教えこまれるのだ。青銅の矛や楯や鼎のおびただしい群落のなかを歩きまわって、つぎからつぎへはてしない欲望の興亡盛衰の痕跡をまさぐっているうちに私はすっかり疲れ、椅子に腰をおろす。が、ふと気がついてみると、年表ではまだ日本の歴史がはじまっていないではないか。巨大なガラス窓から射しこむ日光のなかで私は衰え、非力を感ずる

(開高健『過去と未来の国々・中国と東欧』岩波書店、1961年、51-52

革命軍事博物館・人民大会堂

 『革命軍事博物館』が落成して、ちょうど朝鮮戦争当時の資料が一般公開され、今日がその最終日だという。『抗美援朝』週間の最終日というわけだ。この建物は北京の十六建築物の一つになるのだが、展覧物の関係から、建築はすべて紅軍の兵士たちによっておこなわれたということである。私はあまり好きではない。人民大会堂のほうがはるかにすぐれている。人民大会堂はその思想の表現において非常にすぐれた知恵と美意識を持つ建物である。

 しかし、陳列物にはすくなからず迫力をうけた

 抗日戦が終ったのは一九四五年であるが、翌年四六年からはアメリカと結びついた蒋介石を相手にして三年間の国内解放戦があり、四九年になってやっと毛沢東は北京で中華人民共和国の独立宣言を発布することができた。ところがホッと一息つく間もなく翌年五〇年から朝鮮戦争がはじまり、三年間の激闘がつづいた。この戦争はいうまでもなく大陸の命運を賭けるものであった。戦争の初期には人民志願軍は食糧もなく衣服もなく武器もなければ弾丸もなかった。「国連軍」は最新科学で装備されていた。ジェット機による無差別ジュウタン爆撃がおこなわれ、二メートルか五メートルに一発ずつの割合でナパーム弾が打ちこまれて北朝鮮の山は焼けた。雪のなかで中国軍は北朝鮮軍と協力して闘った。食糧がないので、の根木の皮を剥いで食った。その草根木皮がズラリと並んでいる。武器がないので、ゲリラ戦や白兵戦を敢行するにあたってはシャベルで闘った。(中略)中国人には異様な記録精神と蒐集(しゅうしゅう)癖がある。ある陳列箱のなかには中国軍の兵士たちの体内からとりだされた弾丸や爆弾の破片がコッテリとつみあげられている。血にまみれて色が変り、錆びついて奇怪な形相になっている。その金属片の無数の堆積のよこにはそれをとりだすのに軍医たちが使った、眼をそむけたくなるような原始的な手術道具がズラズラと並んでいるのだ。さらに異様なのは金テコとハンマーである。

(開高健『過去と未来の国々・中国と東欧』岩波書店、1961年、129-131

北京大学

 

 北京大学の日本語教研室を訪問した。

 この大学は北京市のはずれにある。広大な構内には寄宿舎や教室が建っている。近代建築の建物もあるが、古い清朝風の廟のような建物もある。校門は天安門や新華門や故宮(紫禁城)の門などとおなじような純中国風の朱と金と緑で塗られている。校庭には芝生があり、白い中華牌の石柱がたち、学生たちが寝ころんだり、ノートをひろげたり、輪になってすわったりしている。杉や松の老木が鬱蒼と茂り、木かげにところどころ簡素な鈴蘭灯の鉄柱がたっている。キツツキが一羽飛んできて私からほんの二メートルほどの木の幹にとまり、せっせとノミをふるいだした。

何万坪あるのか知れない構内に大きな池がある。そのふちを歩きながら出迎えの東方語系主任の季林教授が英語で説明する。

「…………….この池の名は「未名湖」です。将来どんな人材がこの学校からでるか知れませんからね。名前をつけないでおいてあるのです」

(開高健『過去と未来の国々・中国と東欧』岩波書、1961年、94-95

 

明の十三陵

 またしてもものすごいのをぶっつけてよこした。「明十三陵」と「万里長城」である。前者は明朝十三人の皇帝たちのピラミッドである。一つの山に一人の皇帝が眠り、十三あるうちの、たった一つだけが発掘された。工事に従事した人間をすべて工事完成後に乱殺し、記録をいっさい破棄したので、あとの十二は所在の明細がわからない。今日見た「定陵」は中国の精力をもってしても発掘に二年はかかったそうである。十六世紀末期につくられたものらしい。山の横腹にトンネルがあいて、内部へ入れるようになっている。いくつもの部屋と廊下があり、完璧な石造で、大理石の玉座がおいてある。天井が高く、声と足音が薄暗くつめたい石壁にこだまする。いずれ獰猛(どうもう)非道な、徹底した滅茶苦茶で人民を酷使してつくらせたものであろうが、どうにもやりきれない話だ。墓陵のそとにある陳列室へいくと、発掘品がならんでいる。玉の原石、ヒスイの香炉、トルコ石、サファイア、ルビー、メノウなどの宝石類といっしょに、それらをちりばめた黄金の王冠もおいてある。それをかぶっていた王妃の骸骨の写真も飾ってある。頭の倍ほどもある金冠に宝石をちりばめ、髪ふりみだして歯をギリギリと食いしばっている女の横顔は凄惨であった。怨念に逆上しているようでもあり、いままさに哄笑しようとしているようでもある。日曜の群集がそれを見あげ、眼を丸くしたり苦笑したりしていた。この残酷のあとにあらわれたのがさらにしたたかな怪物であった。

(開高健『過去と未来の国々・中国と東欧』岩波書店、1961年、60-61頁)

長城

 八達嶺へいって、万里の長城を見たのである。雨が降ったあとだったので霧かかがたちこめていた。入口はちょうど谷底にあり、長城は山の背をつたい歩きして峯(みね)から谷へ、谷から峯へとはてしなく蛇行している。谷底から長城の一つの峯にある望楼へあがるには胸に迫る急坂の階段をのぼっていかなければならない。望楼にたどりついての海をのぞいたとき、広大な、透明な、草の息吹きにみちた瞬間がおちかかってきた。はげしい滅形(自分がこの世から消えてしまうことの意)が起るのを感じた

 "Big country. Just nothing but a point ,pin-head point, I am!..."

 私がつぶやくと同伴の『世界文学』編集部の彼女はおだやかに微笑しながら、

 "Yes. Big country. We are too small. We are too small."

 眼鏡の奥で笑った。

 どこかの峯の望楼で長い、若い声が叫んでいた。

 この長城は始皇帝の建てた長城ではない。始皇帝の建てたのはもっと北方にあり、すでに風化して、朽ち、あちらこちら崩れて土に飲まれているはずである。(中略)そのとき私は長城建設のためにおこなわれたあらゆる残虐行為と責任の行方のわからない全体制国家の精力的な盲動を考えて書いてみたのだったが、げんに長城の望楼にたってみると、すっかり息をのまれて、自分がかつて何カ月かその作品のために苦しんだということ、書いたということ、そのこと自体を忘れてしまった。やがてたちなおって「ピンの頭のような点」からすこしずつ内面がひろがり、ふくらみはじめたが、この、えんえん二千数百キロにおよぶ愚挙のものすごさをどうとらえていいのか。いずれにしても、自分の想像力の貧困を嘆くよりほかなかった。これもエジプト「中国」である。不可解な「中国」である。あらゆるものに形を変えてこの怪物は、たとえば望楼の内壁に書きこまれた無数の世界各国語の人名の落書を見て笑っているおだやかな文学少女の内側にも住んでいるにちがいないのである。軍事史上の奇蹟と呼ばれ、『出埃及記』以来と呼ばれている紅軍の二万五千華里の大長征をおこなわせた衝動のなかにもピクピクと生きていたにちがいないのである。中国がこれほど身近に、そしてこれほど遠く感じられた瞬間はなかった。

(開高健『過去と未来の国々・中国と東欧』岩波書店、1961年、60-63頁)

 

昆明湖・万寿山天壇

 万寿山昆明湖天壇。中国の過去の悪と欲望のとめどない尨大(ぼうだい)さ、善と地平線とおなじほどにとめどないその膨張を全身の疲労において知らされた。

(開高健『過去と未来の国々・中国と東欧』岩波書店、1961年、133頁)

昭和文学で旅する北京

九州大学地球社会統合科学府

蘇冠維

*本サイトは、九州大学大学院未来共創リーダー育成プログラム(GIPAD)の支援によって作られたものです

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