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奥野信太郎

  • 1899年〜1968年

  • ジャンル: 随筆家、中国文学者

  • 出身:東京市麴町区紀尾井町

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  • 陸軍軍人を父にもつ厳格な家庭に育ったが、陸軍士官学校をわざと落第、浅草オペラに入りびたるなどして、21歳、慶応義塾大学文学部予科に入る。与謝野晶子 (よさのあきこ) 門下の歌人でもあった。1948年(昭和23)より慶大教授。中国文学に独特の鋭い眼識をもっていたが、粋人肌の彼は論文というやぼな形式を好まず、もっぱら随筆を書いた。『随筆北京 (ペキン) 』(1940)、『柘榴 (ざくろ) の庭』(1952)、『芸文おりおり草』(1958)その他多数がある。翻訳書としては『ちゃお・つう・ゆえ』(老舎作『趙子日』)など。

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  • 中国との関わり:

​奥野自作年譜には、慶應義塾大学予科教員在職中の1936年、「たまたま外務省在華特別研究員の選にあたった」ため、北京へ留学することになったと書かれている。奥野の留学期間は1936年7月から1938年4月までの約二年間であるが、初年度は「在支特別研究員(在華特別研究員)」ではなく「在支第三種補給生」の身分で滞在し、次年度1937年4月から「在支特別研究員」の身分で滞在した。

杉野元子「奥野信太郎の北京留学体験」『藝文研究』、2018年、132頁を参考

1954年の国慶節に、安倍能成を団長とする中国学術文化視察団の一員として阿部知二、奥野信太郎、貝塚茂樹、風早八十二、戒能通孝、倉石武四郎、近藤日出造、小沢正元、菅原昌人、硲伊之助、吉野源三郎、和達清夫、藤田敬三などが招待された。国慶節前後の約1ヵ月間、北京をはじめ天津、西安、上海、杭州、広州の各地を視察した。

『明治以降日本人の中国旅行記(解題)』、121頁を参

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  • 北京紀行:『奥野信太郎随想全集一・随筆北京』(1984年)、『奥野信太郎随想全集五・知友回憶』(1984年)、『奥野信太郎随想全集六・浮世くずかご』(1984年)、『奥野信太郎中国随筆集』(1998年)

奥野信太郎と北京

醇親王​府

 今から十六七年前、わたくしがはじめて中国に留学したときのこと――。

 北京の最北端、什刹後海という大きな池に面して、醇親王の住んでいた大きな邸がある。いや大きな邸といっただけではとてもあの邸の感じは出ない。りっぱで、馬鹿馬鹿しく広くて、間がぬけていて、とにかく邸のなかを歩くとべとべとにくたびれてしまうといったならば、いくらかそれにちかいものが感じられるであろうか。醇親王一族の人たちは、もちろんその邸のなかには誰一人住んではいない。だからいわば主なき空家である。空家ではあるが、まったく人の子一人いないわけでなく、その邸のあっちこっちの建物には、ずいぶんいろいろな中国人が住んでいたのであるが、あんまり広いので、てんで住んでいる人間なんかないように森閑(しんかん:物音もせず静まり返っているさま)としていた。その邸のなかにすばらしくりっぱな小劇場があった。

 (中略)荒廃した庭には古い池がしずかに青錆びた水をたたえている。その池に沿って築山があるいは高く、あるいは低くつづき、そしてその築山の上にあるいは高くあるいは低く廻廊が延々と走っていた。その廻廊の端に小ぢんまりとした二層楼が建っていた。わたくしはこの二層楼の姿がすっかり気にいった。それでさっそくこれを借りることにきめた。借りることにきめはしたが、なにしろひどく荒れはてている上、電灯もひいてないので、とにかく電灯屋や経師屋を頼んで住めるだけにはしなければならなかった。

(奥野信太郎『奥野信太郎随想全集一』福武書店、1984年、224-225頁。)

陶然亭

 実をいえば北京中で最もわたしが愛する風景といえば北海でもなければ万寿山でもない。十刹海のつづき後海のあたりと、この陶然亭一帯の地域とである。この辺は外城の城壁に近い、殆んど一面に沼沢の気味ある湿地で、ただ一本の路が蘆荻(ろてき)の生い茂るなかを南北にうねってゆく。この辺を歩いてゆくときこそ本当に何も聞えない。それだけに野鳩が何処かで姿も見せずに鳴いている声は一入(ひとしお:一層)と身に沁みわたる気もちである。陶然亭はその湿地の中央の小高い岡の上に設けられた廟の名前である。昔は文人墨客が多くこの地を喜んで観月の宴などを催した由であるが今では余り訪れる人も多くないらしい。

 この陶然亭上に立って南を眺めて見るがよい。外城の城壁を内部からこんなに雄大に展望のできるところがまたとあろうか。静かな午後、いつまでもいつまでも立ち尽していると、雲の進行と共にその大きな影が城壁の横腹に落ちて、それが斜めに動いてゆく。蘆荻の葉のざわめきと風の音が耳朶(じだ)にこと新しく感じられるのもこんな時である。あたりはあくまで静かである。そしてその間に混って野鳩の声が断続する。あの辺は殊に野鳩が多いらしい。眼の下は一面の蘆荻でありながらところどころ蘆荻が開けて水が光って見える。昔はもっと水が豊かであったのであろう。今ではたしかに水の落ちた感じが深い。

(奥野信太郎『奥野信太郎随想全集一』福武書店、1984年、54-55頁。)

円明園

もう二十年ほど前のある暑い日であった。北京の西郊にたった一人で、乾隆帝の宮殿であった円明園址をたずねたことがある。カスチリオーネの設計になったという壮麗な欧風宮殿は、往昔英仏連合軍の戦火に焼け落ちて、今はそれをしのぶなにものすらない茫漠たる廃墟で、離々として雑草の生い茂るにまかせている。ただあっちこっちに大理石の円柱階段のこわれが、はげしい夏の光のなかに、巨大な動物の骨の一部のように白く輝いてちらばっていた。みると一人の男が荷車をもってきて、それらの大理石をしきりに運んでいる。(中略)そこでその男にこんな石の破片をなにに使うのかとたずねてみた。するとびっくりしたような眼つきをして、しばらくこっちの顔をみていたが、やがてその男のいうには、これはみんなラムネの原料になるのだとのこと、円明園の大理石が、ラムネの種になると聞いて、さすがのぼくも驚きもし、また心から傷ましい気がしないではいられなかった。

その後、時をへだてて西郊にゆくたびに、円明園址に足を運ぶことも、ままあった。思いなしか、散乱していた大理石の破片は、たしかにぐんぐん減ってゆくような感じがした。あの宮殿の円柱も階段も、みんなラムネの泡になって、人々に呑まれてしまうのかと思うと、せめていくぶん形をのこしている円柱などは、そのまま保存したいものだと、あう人人に向ってよくそんなことを話した。

(奥野信太郎『奥野信太郎随想全集一』福武書店、1984年、250-251頁。)

 

天下第一泉・玉泉山

北京は一体にひどく水質のわるいところである。(中略)ただ円明園址からほど近い玉泉山から湧き出る、乾隆帝のいわゆる天下第一泉の水だけは、この附近の名水ということになっているが、これとてもほかの水があまりにも悪質であるからだけのことであって、それほど水味がいいとも思われない。しかし見た眼には清例そのものであって、巌下(がんか)に沸々(ふつふつ)と音をたてながら湧いて出るありさまを眺めると、夏日炎暑の渇きには、まさに万斛(ばんこく)の源を供するものにはちがいない。天下第一泉の水は池に溢れて、末はさらに細流となって西郊一帯の水源となる。そのあたりはウォータークレスが繁茂していた。ぼくはよくそれを摘みとって帰った。中国人の厨子(コック)はそんなものをどうするのかと訝(いぶ)かしげにたずねるのであったが、塩をふりかけて、まるで馬のようにもりもり生のまま食べるありさまをみて、実に妙なものが好きだというような顔つきをしていた。

(奥野信太郎『奥野信太郎随想全集一』福武書店、1984年、252頁。)

紹興会館

 わたくしは一日、南半截胡同に赴き紹興会館を訪れてみた。番人の老頭児が誰を尋ねるのかと訊くから、誰も尋ねはしない、ただちょっと見せて欲しいというと、何もありはしないと怪訝にみちた顔をした。

 なかへ這入(はいる)ってみたけれども、魯迅が苦心して小説を書いていた部屋は何処であったか、庭をとりまく部屋の窓は一様に汚なく、ところどころ破れ、寒々として見えるばかりであった。更に後房に這入ってみる。やはりがらんとした貧しげな部屋である

関帝の画像が張りつけてあって、その前に蜜供が供え(そなえ)てあった。旧正月直後のことであったから。後から聞いて来た番人に、今やっぱり宿泊している人があるのかと訊いたら、学生さんのほかに夫婦者ですと答えた。

 わたくしはこの底冷えのする会館の奥の一室に佇んで、暫らくあれこれと魯迅が激しい情熱に駆られて、小説を書き続けていた当時のことを想い続けたのであった

(奥野信太郎『奥野信太郎随想全集五』福武書店、1984年、207-208頁。)

 

什刹海

 会賢堂はその什刹海の北岸西寄りに立つ二層楼であるが、今若しこの大きな池什刹海が無かったならば、そしてその池畔を縒って立ち並ぶ古い柳樹の木蔭路と池面一杯を蔽いつくす蓮の花のすがすがしい匂いとが無かったならば、わたくしは敢て会賢堂の雅座を推賞しなかったであろう。古城の一隅の静かな柳の茂みに蔽われたところ、清香十里湖心に動くのを感じながら、まだ暮れきらない濃い水色の夏の夕空を窓に望んで紹興酒の盃をふくむ快はまた格別である。

 北海繋留(けいりゅう:けいりゅう船・気球などをつなぎとめておくこと)するところの画舫(がほう)に料理をもちこんで月の出汐(でしお)を望みつつ採蓮の故事を偲ぶのも悪くはなかろうが、何といっても夏の北海は人の出盛るところである。やや廃滅の感あ什刹海の風趣には及ばないように思われる。

(奥野信太郎『奥野信太郎随想全集六』福武書店、1984年、119頁。)

昭和文学で旅する北京

九州大学地球社会統合科学府

蘇冠維

*本サイトは、九州大学大学院未来共創リーダー育成プログラム(GIPAD)の支援によって作られたものです

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