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北條秀司

  • 1902年〜1996年

  • ジャンル: 劇作家

  • 出身:大阪府

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  • 本名飯野秀二。関西大学文科卒業。天王寺商業在学中に宝塚歌劇脚本募集で1席入選。大学卒業後上京して箱根登山鉄道に勤務、その一方で岡本綺堂 (きどう) に師事。1937年(昭和12)『表彰式前夜』『華やかな夜景』で劇界にデビュー。39年綺堂の死を契機に劇作に専念、40年戯曲集『閣下 (かっか) 』で新潮社文芸賞を受賞。47年(昭和22)から51年にかけて、将棋の世界に一生を賭 (か) けた阪田三吉の生涯を描いた『王将』3部作を発表、その後も『文楽 (ぶんらく) 』(1948)、『霧の音』(1951)、『井伊大老』(1953)、『建礼門院』(1969)など、歌舞伎 (かぶき) 、新派、新国劇に秀作を書き、商業演劇作家の第一人者となった。64年から日本演劇協会会長。87年文化功労者。

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  • 中国との関わり:

  • 北條秀司の随筆集で,最初の一篇が「北京暖冬」と題して,1957(昭和32)年12月5日から21日までの中国訪問日記である。一行は,著者のほか,久保田万太郎,喜多村緑郎夫妻,金子洋文,吉田謙治,穴沢喜美男、宮口精二,倉林誠一郎ら演劇関係者で、その旅程もほとんど北京に滞在して各種演劇の鑑賞と劇界の人々との交流にあてられている。毎夜の如く、京劇、評劇や現代劇を観て、それらの演出方法や舞台装置に注意をはらい、また観客の態度にも眼をくばっている。昼間は、中央戯劇学院や京劇院など演劇・舞踊関係の学校を訪れて,俳優たちの演技指導や訓練の様子を見学したり,北京周辺の名勝旧蹟に足を運んでいる。そのほか、梅蘭芳,欧陽予倩らと親しく話し合ったり、自由時間に北京の娯楽街を歩いて大衆演芸を楽しんだことなどが、軽い筆致で語られている。

(『明治以降日本人の中国旅行記』、144頁を参考。)

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  • 北京紀行:『北京暖冬』(1968)

北條秀司と北京

故宮

紫禁城(今の名は故宮博物館)に案内されることになる。王君のほかに甘麗華夫人という横浜生まれの通訳が加わり、天安門から午門、太和門と喜多村翁を中心にブラブラと歩いてゆく。翁の牛歩が少しも苦にならぬほど、春風駘蕩たる遊覧日和である。(中略)中国建築の豪華さは、正直に言ってわたしにはそれほど魅惑的ではない。しみじみと心に沁み入って来るものがない。ただわたしはこの大まかな建築物から立ちのぼる古代支那のゆめに、異国人としての陶酔をおぼえるだけである。

皇帝が百官の賀を受けたという太和殿を通り抜けたところに休憩所があった。その売店で笛を売っていた。若い中国人がそれを買ってとてもうまく吹いた。もう少し吹いてくれと頼むと、にっこりとしてまた吹き出した。いい音色だった。北京の鳩笛が空から降って来るような心持だ。石階に坐って長い間わたしはそれを聴いていた。ウエットなものに欠乏を感じているのかも知れない。太和殿であったか保和殿であったか、殿前に大きな黄金の甕があり、金を剥ぎ取った跡が露わにのこっていた。「これはどうした跡なんですか」と、曾夫人に質すと「清国ト日本が戦争シタ時、日本兵隊サンガ剥ガシテ行ッタノダソウデス」と、言いにくそうな表情で説明した。

(北條秀司『北京暖冬』青蛙房、1968年、18-19頁。)

天壇

天壇は南方城外にある遺跡で、歴代の天子が五穀豊穣を天に祈ったという場所である。わたしは北京の遺跡の内では天壇がいっとう好きだ。それも、祈年殿より圜丘の方が好きであるなに一つ殿堂を持たぬ大理石の円階、その上に深夜一人跪座して満天の星華に祈願をこめる天子の姿を想い描くと、身がひきしまるような魅力をおぼえる。しかし、今日の空は白く靄立ち、天壇からその神秘性を拭きとっている。

(北條司『北京暖冬』青蛙房、1968年、19-20頁)

王府井

北京の銀座ともいうべき王府大街は、さすがヒッソリカンと寝静まっていたが、洋車を呼んで、明るい空を目指して駆って見たら、駅前前門の辺りにはまだ夜の賑わいがあった。かつては妓楼がズラリと軒を並べていた一角がすっかり酒店街と変り、映画館を流れ出た人々が小酒店や屋台店に首を突込んでいる。街娼の影も見当らない。

司『北京暖冬』青蛙房、1968年、16-17頁)

八達嶺長城

 

そろそろ寒波が襲来しそうなので、スケジュールを繰り上げて、万里の長城と十三陵を見に行くことになる。北京市から一等距離の近い八達嶺の城関まで、自動車で三時間足らず。行くほどにぐんぐんと山が深くなり、谷間の所々に残雪が光っている。城壁の前に観光客用の温い休憩所が出来ている。そこで案内者達がホテルから積んで来てくれた心づくしの弁当を開き、身震いするようなビールをのむ。ピクニック気分でとてもたのしかった。城壁の上の道を頂上の哨楼まで登って見る。石畳が凍り、編上げでは危く、降りはついに靴を脱いだ。登って来た外国人達がニヤニヤとわらっていたが、降りて来るのを見たら、やはり皆靴を脱いでいた。金子さんだけが前日買ったあまり品の良くない布靴を穿いてい(原文ママ)、皇帝の如くわざと傲然と登り、且つ降る。城壁の外は残雪の量が多く、吹きつける朔風がさすがに冷たかった。

(北條秀司『北京暖冬』青蛙房、1968年、37-38頁)

 

明の十三陵

十三陵へは自動車で一時間。中国にはめずらしく美しい起伏を持った山脈が野末に近づき、その山ふところに、明朝歴代の皇帝の陵墓が点在している。その一つ一つを見ていては日が暮れるので、最も規模の大きい世祖文皇帝之陵というのへ案内される。ひろびろとした草原の中に在るためか、その美しい彩薨と彩壁が際立って新鮮だった。万寿山の絢爛さには魅力を感じ得なかったが、この陵閣とそれをとり巻く石造美術群には、声を上げたいばかり魅惑された。折柄冬晴れの青空と対比したその朱の色がじつにあざやかで、時を忘れて恍惚とした。帰路の野道もよかった。山々にたそがれの影がうつくしい襞(ひだ)をつくり、帝の徳を讃える華表が、草中に斜陽を浴びて、わたし達を見送っている。窓硝子に頬を寄せて、それらの美術品の最後の一つが見えなくなるまで、貪欲に跡を振返っていた。明の十三陵周辺の風光は、古代中国のゆめを凝結した世にも美しい大抒情詩だと思った。

(北條秀司『北京暖冬』青蛙房、1968年、38-39頁)

万寿山・昆明湖

万寿山の昆明湖には薄氷がのこっていたが、名物の長廊下をあるいてゆくと背中に汗がにじんだ。元気旺盛な金子さんにつき合って一等上の仏香閣まで登って見たら、全身が真夏のような汗になった。どの仏閣もいたずらに瀬戸物細工をおもわせ、どの仏像も礼拝しようという心を起こさせない。清の西太后が軍艦建造をやめて造園させ、そのため日清戦争に敗れたという伝説さえあるこの壮大な仏閣も、わたしにとっては所詮縁なき異国美術だった。全山石で固められた山端に立って、わたしははるかなる奈良京都の寺々を思慕した。

湖畔の旗亭で昼食をすませ、湖べりをブラブラあるいて、石の舟や、日本政府から贈った明治時代の小汽船を見る。なんという長閑さであろう。骨が軟かくなりそうだ。

(北條秀司『北京暖冬』青蛙房、1968年、23-24頁)

昭和文学で旅する北京

九州大学地球社会統合科学府

蘇冠維

*本サイトは、九州大学大学院未来共創リーダー育成プログラム(GIPAD)の支援によって作られたものです

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