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城山三郎

  • 1907年〜2007年

  • ジャンル: 小説家

  • 出身:名古屋市

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  • 愛知学芸大で経済学の講師をつとめながら小説を発表。昭和34年「総会屋錦城」で直木賞をうけ,経済小説の開拓者となる。50年広田弘毅(こうき)をえがいた「落日燃ゆ」で吉川英治文学賞,毎日出版文化賞。平成8年「もう,きみには頼まない―石坂泰三の世界」で菊池寛賞。15年朝日賞。平成19年3月22日死去。79歳。愛知県出身。一橋大卒。本名は杉浦英一。作品はほかに「毎日が日曜日」「鼠」など。

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  • 中国との関わり:城山三郎氏は1963年に中国を訪問したことがある。その際に、ひいては彼の大学での教職を辞めた。1963年の夏、城山三郎氏は、演劇家の木下順二を団長とした日本作家代表団のメンバーとして、中国へ訪ねてきて、周恩来総理と面会した。そして、15年後の1977年初春の頃、城山三郎氏は再度に中国の土地に踏み出した。その15年の間に、まさに日本を含んだ世界各国が戦後に、態勢を立て直し、急速に国の繁栄を図った15年であり、同時に中国共産党上層部が権力闘争に追われ、最後に「プロレタリア文化大革命」を招き、中国が世界のトレンドに大いに遅れるようになった混乱の15年でもあった。(筆者訳)

(王向远「当代日本作家的中国纪行」『燕赵学术』2007、200頁。)

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  • 北京紀『中国激動の世の行き方』 (1979) 

城山三郎と北京

八宝山革命公墓

 八宝山革命墓地――正確には、「革命公墓」という。ふんい気は明るく、のびやか。日本の墓地のように、しめった抹香くささはない。

 ここを別にして、北京では、墓地が目につかなかった。いや、中国の大都会では、墓地や墓をほとんど見かけない。火葬した骨の安置所があり、一般には、そこで三年だけ預かり、あとは遺族に差し戻すか、処置してしまうことになっている、とも聞いた。八宝山は、それだけに、特別の計らいによる墓域ということになる。北京の西北、緑の多い静かな一側にある。中国共産党発足以来の犠牲者、いわゆる「革命烈士」たちの墓が集まっている。党の幹部の墓もある。どれもりっぱな墓で、その多くに、生前の顔写真がはめこまれている。没年から生年を引算すると、二十代三十代の死者も多く、若い命が次々に失われて行った痛ましさが、胸をついてくる。

 参詣人の姿がちらほら。しきりに小鳥がさえずり、ときどき蝉が思い出したように短く鳴いた。墓には、わずかに花が供えてあったりするだけで、水をかけたり線香を立てたりするわけでもないので、石はいつまでも真新しい感じで、白く陽に輝いていた。どの墓もたいてい同じ大きさで、とくにえらい人だから大きな墓、という様子もなかった。ところどころにある大きな碑は、同時に遭難した数人をいっしょに葬ったもので、事件の記念碑でもある。女性ジャーナリストのアグネス・スメドレーなど、中国革命に同調した外人の墓もあった。日本共産党の大物で北京で客死した徳田球一の墓もあったが、数年前、遺族が日本へ骨を持ち去った、という。いずれにせよ、それらの墓を丹念に見て回れば、中国革命史を墓碑によって綴ることができ、激動の歴史の足音を地下から聞くことができそうな感じであった。ただ、歩いているうち、わたしはそこに、わたしのいちばん見たい墓がないのに気づいた。周恩来総理の墓である。墓がないのは当然である。「墓をつくらず、自分の骨は祖国の山河にふりまくように」というのが、周総理の遺言であったから。

(城山三郎『中国激動の世の生き方』毎日新聞社、1979年、7-8頁。)

万里の長城

八達嶺とは、北京から日帰りで行ける万里の長城の地。中国といえば万里の長城。中国人も外国人も、何をおいても万里の長城を見たがるものなのに。

「どうしてですか」という問いに、磨さんらしい答えが返ってきた。

「上るのに、たいへんな力が要るらしいからね」

麓まで行ってもいいし、人手を借りるなどして上る方法もあるであろう。それに、これまで行く機会が数多くあったはずだし、要人として、案内かたがた行かねばならぬことだってあったかも知れない。それなのに、きれいさっぱりと、「我関せず」である。天下第一関も問題ではない。(中略)長城では、ダブダブズボンの水兵さんが、多勢トラックに乗って見物に来ていた。いちばん気の弱そうな顔をしたのが、士官であった。みんな、長城よりも、わたしたち日本人を物珍しそうに見物していた。

(城山三郎『中国激動の世の生き方』毎日新聞社、1979年、139と188頁)

明の十三陵

 豪華な地下宮殿ともいえる明の十三陵。工事が終ると、工事人足全員の生き埋めをはかったという話はショックであったが、よく修理され、手入れが行き届いていたのに、感心した。文化遺産の尊重という当時の国策によるのだが、民衆の側に、それだけのニーズがあったからでもあろう。

  濃い柏の茂みの奥にある天壇。紺色の丸屋根と淡青色の空の調和が美しかった。園内の茶店は家族づれで満員であり、木蔭では、太極拳に励む老人たち、ござを敷いて昼寝する少女、木の実で球技をしている子供たちと、見るものすべてがのびやかで、たのしそうであった。

ろう。

(城山三郎『中国激動の世の生き方』毎日新聞社、1979年、188-189頁)

北海公園

 

ある夜、北海公園内の茶亭で食事。柳の古木の上に月が出て、風が涼しかった。大きな池の上に舞台をつくり、水上音楽祭が営まれていた。たまたま七月七日でもあった。「一九三七年の宵には、北京郊外で砲声がとどろきました。だが、いまは、音楽祭の音だけが聞えてきますね」と、白氏がつぶやいた。(中略)「平和そのものですね」と、わたしも、しみじみつぶやいた。この北海公園は、四人組時代、閉鎖されていた。江青あるいは王洪文の別邸として使われた、ともいう。

(城山三郎『中国激動の世の生き方』毎日新聞社、1979年、189頁)

 

香山公園・碧雲寺

 今回の旅では、碧雲寺のある香山公園を訪ねた。永い間、閉鎖されていたせいもあるのであろう、たいへんな人出であった。グループ、家族づれ、兵士もいれば、ラジオをぶらさげた労働者もいる。寺の内部では、五百羅漢の立像の群がおもしろかった。どれも人間的で、表情豊かな顔をしている。「羅さんは、仏になる寸前の顔してます」と、仏に明るい水上勉氏の説明に、わたしはつい、「四人組に似た顔もあるけど、どういうわけでしょう」と、質問しそうになった。

(城山三郎『中国激動の世の生き方』毎日新聞社、1979年、189-190頁)

毛主席記念堂

北京に新しい参詣先が、ひとつふえた。天安門前広場、あの人民革命英雄記念碑の奥にできた毛主席記念堂である。レーニン廟に似たつくりだが、暗さはなく、規模も十倍近く大きい。

堂内中央に、蝋人形のような毛主席の遺体が安置されている。堂正面の〈毛主席記念堂〉の金文字は、華国鋒主席の筆。

墓ひとつない問総理と思いくらべるわけではないが、わたしには、どうも趣味のいい建物と思えない。つい、それを漏らすと、中国側の友人はいった。

「実はこの建物、江青の考えでつくられたのです」と。余談だが、帰国者の一人がいった。

(城山三郎『中国激動の世の生き方』毎日新聞社、1979年、190-191頁)

 

頤和園・昆明湖・万寿山

 北京の西北に在る頤和園。八百年前から築かれてきたものに手を加えた清朝の夏の離宮である。ひろい昆明湖は人造湖で、掘り上げた土で万寿山をつくった、といわれる。西太后の隠棲の地でもあり、西太后はこの完成のために、北洋艦隊の建造費までつかいこみ、そのため清国が黄海海戦で敗れるといういわくつきの庭園である。都心からは十六キロ。北京市民にとっては、奥座敷に当る憩いの場である。異国の旅行者にとってもまた、旅の疲れを一日休めるのに、恰好の土地であった。

 先回は、舟に乗ったり、山に上ったり、湖面の一部を仕切った水泳場で泳いだり。もっとも、更衣室では、男たちが平気で一物を露出しており、水は汚なく、底はぬるぬるして気持がわるかった。

 今回は、泳げる季節ではなかったが、日曜のことでもあり、おびただしい人出。湖面にはポートが、釣り禁止のはずの湖岸には、草叢の中に、点々と釣り人の姿が見えた。平和な感じであった。深い緑と、点在する華やかな堂塔をめぐって、人々は思い思いにくつろいでいる。そうした光景は、十五年前と少しも変わっていなかった。変わっていないことが、この場合、懐しく、うれしかった四人組時代、この頤和園に、江青は二つの別荘を構えていた、という。(中略)もちろん、江青がこの別荘に滞在中は、一般客は頤和園に入場できない。かつてここの主であった西太后と同じ心境である。

(城山三郎『中国激動の世の生き方』毎日新聞社、1979年、153-154頁)

昭和文学で旅する北京

九州大学地球社会統合科学府

蘇冠維

*本サイトは、九州大学大学院未来共創リーダー育成プログラム(GIPAD)の支援によって作られたものです

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