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武田泰淳

  • 1912年〜1976年

  • ジャンル: 小説家

  • 出身:東京市本郷区駒込東片町

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  • 昭和9年竹内好らと中国文学研究会をつくる。12年召集され中国を転戦し14年除隊。18年評伝「司馬遷」を刊行する。上海で敗戦をむかえ帰国,敗戦体験をもとに「審判」「蝮(まむし)のすゑ」などを発表,第1次戦後派の代表的作家として活動した。昭和51年10月5日死去。64歳。東京出身。東京帝大中退。旧姓は大島。幼名は覚(さとる)。作品はほかに「ひかりごけ」「森と湖のまつり」「富士」などがある。

  • 中国との関わり:武田泰淳は作家であるとともに中国文学研究者であるが、戦中に 2回中国の土を踏んでいる。 1937 (昭和12) 年に一兵卒として杭州上陸 の部隊に加わり,また1944年に翻訳の仕事で上海に行っている。 戦後は 1961 (昭和36) 年冬に訪中している。 この時の中国旅行の感想が「北京・ カイロ・モスクワ」と題して本書に収められているのだが,これは1962 年に「岩波の文化講演会」 で行われた講演に加筆されたものである。 行は堀田善衛・椎名麟三・中村光夫と著者の4人。 広東 武漢・鄭州・ 杭州・北京の各都市を訪れ, 老舎に会ったり作家同盟の座談会に出席し たりしている。

(『明治以降日本人の中国旅行記(解題)』p154を参考

  • 北京紀行:『我が中国抄』(1963年)

武田泰淳と北京

万里の長城 

北京に行けば、皆さん方でもおそらく万里の長城というところに案内されると思 いますが、その万里の長城も行くところはきまっていて、 八達嶺というところに行くわけです。 これを築いたのは秦の始皇帝という人で、今、日本で映画をやっておりますが、 この秦の始皇帝 というのは、どんな人間であったかということは、皆さんあまり興味がないかと思いますけれど も、昔は重要な人物であった。 悪人悪人といいますが、論語や儒教の尊い書物やなんかも焼 いてしまうとか、守ろうという学者を穴埋めにしたり、生き埋めにしたり、万里の長城というあ あいう工事をやって、人民を苦しめたといわれていたわけです。

(武田泰淳「我が中国抄」普通社、1963年、219頁)

歴史博物館

私が北京の歴史博物館に行きましたら、秦の始皇帝の絵が描いてある。この秦の始皇帝は、キリスト様の生まれるもっとずっと前の人であって、写真にもない。だから実際に秦の始皇帝の顔 てあるかわからない。とにかくああいう顔のでっぷりした、眉の太い、目の大きい、エネルギッ シュな男が衣冠束帯をつけて描かれている。これはよい人間か悪い人間か聞きましたら、わから んという。今検討中であって、両方に分かれて検討しているというわけです。ですから歴史的な見方も幅があるということを言っている。 映画の方の秦の始皇帝もこの間見ましたが、よいか悪 いかわからんが、ものすごい人間であるということになっております。

(武田泰淳「我が中国抄」普通社、1963年、219-220頁)

昭和文学で旅する北京

九州大学地球社会統合科学府

蘇冠維

*本サイトは、九州大学大学院未来共創リーダー育成プログラム(GIPAD)の支援によって作られたものです

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