昭和文学で旅する北京
東山魁夷
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1908年〜1999年
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ジャンル: 画家、著述家
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出身:横浜市
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結城素明(ゆうき-そめい)に師事。昭和8年ドイツ留学。21年より日展を中心に出品。43年皇居新宮殿壁画,50年と55年唐招提寺御影(みえい)堂障壁画を制作。静謐(せいひつ)な風景画により独自の画風をきずいた。31年芸術院賞,40年芸術院会員,44年文化勲章。平成11年5月6日死去。90歳。神奈川県出身。東京美術学校(現東京芸大)卒。本名は新吉。作品に「道」「光昏」「桂林月夜」など。著作に「東山魁夷画文集」など。
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中国との関わり:
東山魁夷は1976年より1978年にかけて、3回にわたって中国を歴訪した。
「市川と東山魁夷」市川市東山魁夷記念館https://www.city.ichikawa.lg.jp/higashiyama/020.html(2023年8月15日閲覧)
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北京紀行:『東山魁夷画文集〈10〉水墨画の世界―中国への旅』(1979年)、『中国への旅』(1984年)
東山魁夷と北京
私は唐招提寺障壁画の第二期の制作に、中国の風景を描きたいと考えたが、実行するに当っては、大きな困難があることを感じた。御影堂の残りの三つの部屋には、四十二面の襖(ふすま)があり、このような大画面を描くのには、実際に中国を旅行して、各地の風物に接し写生することが必要である。その中から中国風景の象徴としての山水を描くわけである。しかし、中国各地を旅行し、その精髄を探訪するというようなことは、夢に等しいと思わねばならなかった。
幸いに日本経済新聞社の円城寺会長や日中文化交流協会の方々の尽力で、中国側へ私の希望が伝えられ、中国側でも鑑真和上に捧げる障壁画のための取材という点に好意を寄せられて、昭和五十一年以来、毎年、私の中国への旅となったのである。こうして各地の風物の写生に対して大きな便宜を図られ、必要な風景写生を五十三年には完了することが出来た。それだけでなく、北京の故宮博物院をはじめ、南京、揚州、上海の各博物館に秘蔵されている中国水墨画の名作の数々を鑑賞する機会を得たのも、墨絵を研究する上に大きな仕合せであった。
最初の中国の旅で宿舎の北京飯店の窓から故宮を写生した時、私にとっては思いがけないことが起った。折から五月の新緑の季節で、陽光に明るく輝く若緑と濃緑の森の上に、金色の瑠璃瓦の屋根、赤い城壁が色彩的な対照を示していたにもかかわらず、私は墨一色でスケッチを始めた。それ以来、各地の旅でのスケッチは殆んど全てが水墨風のものになった。
(東山魁夷『東山魁夷画文集〈10〉水墨画の世界―中国への旅』新潮社、1979年、214-215頁。)