昭和文学で旅する北京
杉森久英
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1899年〜1968年
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ジャンル: 小説家、評論家
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出身:石川県
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雑誌「文芸」の編集長として、戦後派の作家を数多く世に出した後、自らも作家となる。さまざまな分野で活躍した人々の伝記小説を書き、昭和史の発掘にも尽力した。「天才と狂人の間」で直木賞受賞。他に「近衛文麿」「天皇の料理番」など。
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中国との関わり:
杉森久英は、武田泰淳・永井路子・尾崎秀樹とともに中国作家協会の招待をうけて、1967(昭和42)年4月から5月にかけて20日間余り中国を訪れ、広州・北京・西安・上海・杭州・紹興・長沙の各地を旅行した。見学見物したおもなところは、広州の農民運動講習所と見本市、北京では市内各所のほか万里の長城、沙石峪生産大隊、西安では旧八路軍簪備処、紡績工場、碑林、碍子工場、華清池、上海では港湾施設、身体障害者の働く工場と重型機器廠、中国共産党史博物館、杭州近くの竜井および解放軍英雄・蔡永祥のいた部隊、紹興では秋瑾と魯迅に関係あるところ、長沙では毛沢東の旧居および生家であった。
『明治以降日本人の中国旅行記(解題)』、185頁を参考。
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北京紀行:『中国見たまま』(1972年)
杉森久英と北京
近代中国の歴史に多少の関心を持つ者にとって、このあたりは興味ふかいところである。このあたりは東京でいえば赤坂、麻布に似て、外国の大使館、公使館がたくさんあったところで、なにか外交上の事件があるごとに、東交民港という名前は新聞を賑わした。義和団事件のとき、日本公使館員(日本にかぎらないが)が籠城したのも、ここであり、外国使臣が大清国皇帝に謁見のため、馬車を走らせたのも、ここからであった。アジアの天地を揺り動かす風雲は、しばしばこの一廓から巻き起った。
しかし、いま春のうららかな日差しの中に見る東交民巷は、何の変哲もない町である。東京の山の手に似て、高い塀をめぐらした敷地の中には、樹木が茂り、洋風の近代建築が、枝を透かして見え隠れしている。それぞれ世界の列強の大公使館だったのだろうが、そのほとんどと国交を断った中国は、いま、これらの建物をいろんな政府機関の事務所に使っているということであった。
(杉森久英『中国見たまま』文藝春秋、1972年、81頁。)
東風市場へも寄ってみた。むかしの有名な東安市場だが、文化大革命で紅衛兵たちの攻撃を受け、東風市場と名前を変えさせられた。なんでもかでも(原文ママ)、名前を変えれば内容も変ると思っているところがおもしろい。
むかし北京にいたことのある人にとっては、東安市場はおもしろいところだったそうで、なんでもかでも、ない物はなかったそうだが、いまは、なんにもないところになってしまったという方がいいだろう。筆墨、硯などの文房具を売る栄宝斎という店は、むかしから有名で、文人墨客が垂涎してやまない高級品をならべていたそうだが、いまはガランとしていて、隅の方にごく粗悪な小学生の学習用程度の品がおいてあるきりである。
(杉森久英『中国見たまま』文藝春秋、1972年、81-82頁。)
万里の長城へ着いたのは、昼ころであった。長城といっても、あの長い城壁の中の一地点、八達嶺である。
(中略)長城はながい間、漢民族を外敵から守る役目を果して来たのだろうが、大砲や飛行機など近代兵器の発達した今日、ほとんど無用のものとなってしまった。今ではピラミッドや日本の古城と同様、すっかり観光用のものになっていて、城壁の下の広場にはレストハウス、売店めいたものが建てられ、観光バスが何台もならんでいる。長い年月に崩れ落ちた石はていねいに積み重ねられ、セメントで補強され、女子供にも上り下りしやすいように、石の段や手すりなどが付加えられている。高いところへ登ってみると、たしかに偉観である。
むらがる峻嶺の尾根を越え、谷を渡って遙かに続く石の壁は、これを築くために費やされた人力の巨大な量と、それを自由に駆使することのできた帝王の無限の権力を想像させるに充分である。これは日本のように、狭い国土とすくない人口の国家の支配者には不可能なことであった。これを築いた民衆のひとりひとりはおそらく、圧制と搾取に苦しんでいたのだろうが、その上に君臨する帝王は、壮大な夢に酔うことができたのである。
ふと見ると、うねうねと続く城壁の一番高いところをめざして、一人の若者が、大きな赤旗をひるがえしながら、勢よく進んでゆく。くすんだ山の木々の中に、旗の色の赤だけが、燃えるようである。どこかの観光団の一人なのだろうが、おそらく彼は天下を征服したような快感にひたっているのだろう。
(杉森久英『中国見たまま』文藝春秋、1972年、58-59頁。)
天安門ならびに紫禁城の宏壮なのには、感嘆のほかない。しかし、紫禁城は近くで仰ぐより、すこし離れたところからながめたほうが、どっしりした重みが感じられる。まことに四百余州の権勢と富を一身に集めた帝王の威力をまざまざと思わせる大建築だが、いたるところに例の「毛主席万歳」式のスローガンがべたべた書きつけてあるのは、美観をそこなうこと甚だしい。中国人はもともと文字を愛する国民で、家の門には聯をかけ、商店の軒には招牌をかけ、家じゅうに字を書いた紙や板をはりめぐらすことが好きな人たちだから、城壁だろうが、屋根だろうが、羽目板だろうが、所かまわず字を書きつけるのは、ほとんど天性といっていいだろうが、むかしのそういう字はみな、肉筆の達筆で、ほれぼれするような雅致があった。ところが、今日そこいらに書き散らしてあるスローガンは、みな定規と物さしで書いたような、活字体の略字で味もそっけもないばかりか、真赤な地に黄のペンキの色がなまなましく、全体の調和をやぶるばかりである。
(杉森久英『中国見たまま』文藝春秋、1972年、45頁。)
景山公園を見る。杏や桃や、海棠や、きのう空港からの道路で見たと同じ迎春花の花ざかりである。空気はしっとりと湿り気を帯び、甘い花の香りがたちこめている。
(杉森久英『中国見たまま』文藝春秋、1972年、45-46頁。)
そういえば、私は北京の万寿山では、東照宮と厳島神社を思い出し、西湖では上野の不忍の池を思い起した。(中略)しかし、それにしても、わが国のどれもが、中国のそれらにくらべて、なんと矮小で、浅薄で、吹けば飛ぶように粗末に出来ていることだろう!そこには、四百余州を背景にした富と、六十余州をギリギリまで絞りあげた富との歴然たる差がある。
こういう建造物や古美術、工芸品に関するかぎり、日本は中国の足もとへも及ばないことを、私は認めないわけにゆかない。
(中略)北京で万寿山へいったとき、私はその豪壮な規模に感心して、通訳の徐君に、「これはすばらしい。わが国の東照宮なんか、問題じゃないですね」といった。私はこれを、御機嫌取りのつもりでいったわけではないが、工場へいっても、人民公社へいっても、あまり感服した顔をしない私だが、感心すべきものには素直に感心するだけの雅量は持っているつもりだという気持ちも、多少あったかも知れない。
(杉森久英『中国見たまま』文藝春秋、1972年、118-119頁。)
夕方、万寿山頤和園へいった。有名な西太后の築いた遊園である。そろそろあたりが暗くなり、閉鎖の時間がせまっていたので、大いそぎで一巡したが、その豪壮と絢爛には圧倒されるばかりである。これにくらべれば、日光や厳島はあわれなイミテーションにすぎない。しかし、この巨大な土木工事に使役された民衆が、どんなに惨澹たる生活をいとなんでいたかは、今日われわれから見て決して満ち足りた生活をしているといえない中国人民が、むかしにくらべればよくなったといって喜んでいるところからも、およそ想像がつこうというものである。万里の長城でも感じたことだが、独裁国家では、国家が巨大になればなるほど、帝王に集まる権力と金力は巨大となり、民衆の生活は相対的に圧迫されて、悲惨なものとなるのであろう。
(杉森久英『中国見たまま』文藝春秋、1972年、82-83頁。)