昭和文学で旅する北京
大岡信
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1931年〜2017年
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ジャンル: 詩人、評論家
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出身:静岡県
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はじめ読売新聞に勤務し,昭和29年谷川俊太郎らの詩誌「櫂(かい)」に参加。45年ごろから連句(連詩)をはじめる。47年「紀貫之(きの-つらゆき)」で読売文学賞,54年から「朝日新聞」に連載をはじめた「折々のうた」で55年菊池寛賞。明大教授,東京芸大教授。平成7年芸術院恩賜賞。9年文化功労者。15年文化勲章。日本ペンクラブ会長もつとめた。静岡県出身。東大卒。
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中国との関わり:
大岡信は日本作家代表団の一員として1976年11月29日から12月15日まで中国を訪れた。一行は中国人民対外友好協会から招かれたもので、井上靖を団長に、大岡信の他、巌谷大四・伊藤桂一・清岡卓行・辻邦生・秦恒平らがメンバーであった。北京大同杭州紹興・蘇州・上海とまわったが、北京にはもっとも長く9日間滞在した。東西・南北の交錯する要所に門があり、歴史的な都城の姿を残している一方、路上には自転車やバスがせわしく行き交い、人々は車道にあふれ、馬・驢馬も通り、そして政治的緊張が感じられる、と著者は北京を描いている。教宮・八達嶺・定陵などを見物すると同時に、北京では、王治秋国家文物事業局長、作家の劉白羽、孫平化中日友好協会秘書長との会見があった。
『明治以降日本人の中国旅行記(解題)』、226頁を参考。
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北京紀行:『片雲の風―私の東西紀行 』(1978年)
大岡信と北京
長安街を中心とするこの東西の大路に沿って、中国革命博物館、中国歴史博物館、人民英雄記念碑、人民大会堂、民族文化宮、中国人民革命軍事博物館などの記念建造物が点々とたち並んでいる。私たちはこのうち、人民大会堂と歴史博物館には入ったが、あとは前を通りすぎただけで、中身は知らない。歴史博物館を、時間にせきたてられながら一瞥程度にめぐって見るだけでも、そこに展示されている文物がありありと示しているこの国の歴史の厚味には圧倒される。そして、故宮博物院がある。残念なことに、二年ほど前から大地震の予測があり、現実に七六年夏に起きた唐山大地震のあとも、なお地震の発生が警戒され、実際小型の地震はたえず中国北部一帯に生じていたから、故宮の美術品のうち相当数のものが北京からどこか他の土地に疎開されているということで、私たちは、故宮の建物は歩いて見たものの、美術品を見ることはほとんどできなかったのだった。
(大岡信『片雲の風―私の東西紀行』講談社、1978年、226頁。)
八時半出発、万里の長城の八達嶺へ向かう。少年時代から八達嶺の名はおなじみだが、私には金子光晴氏がここにのぼったときの思い出を書いた文章が、今ではいちばん記憶に残っている。北京北方の長城の砦である。途中、八達嶺の前哨地居庸関の趾を見る。八達嶺は寒いですよ、と警告されていたのだが、この日は酷寒というほどではなく、八達嶺の砦の頂上まで、かなり急な坂道をあえぎあえぎ登りつめると、汗が噴くほどだった。中国人、ヴェトナム人、アメリカ人などの、それぞれ十人前後の団体をなしようかんている見学者たちとたくさんすれちがう。辻さん、秦さんと私が、結局てっぺんまで登ったかけいせんが、通訳の買恵萓さんも一緒に登る。女だてらに、などと言ってはいけない。彼女は、われわれだけを放り出して自分は途中で休みながら待つことは、義務の放棄であると考えたのかもしれない。実際、私たちについてくれた通訳諸氏は、義務感の強さにおいて徹底し、サーヴィスのみごとさにおいて驚嘆すべき人々だった。
(杉森久英『中国見たまま』文藝春秋、1972年、133-134頁。)
八達嶺から、明の十三陵(明の歴代皇帝の陵が点々と立ち並ぶ)のひとつ、定陵に向かう。この陵については、司馬遼太郎氏の『長安から北京へ』にきわめて詳しい。私たちは定陵わきの接待室のようなところで、持参の弁当で昼食をとった。(中略)定陵へ向かって車が田舎道を疾走していたとき、幅五メートルほどの道の両わきに並ぶ並木に見え隠れしながら、前方を白い馬が駆けてゆくのがとつぜん眼に入った。車と同じ方向へ駆けてゆく。私たちの数台の車の列の、一台ずつが馬を追いこすたびに、この馬はすっと並木の外側へ移り、車が通りすぎるとまた道路に乗ってくる。私は最後尾の車にのっていたから、この馬のリズミカルな並木との交錯に、思わず腰を浮かしたほどだった。それにしても異様だったのは、この馬がただ一頭で、つまり乗る人もなく、導く人もな車の疾走する道路をばかばか走ってゆく姿である。しかも美しい白い馬だ。私は思わず言った。
(杉森久英『中国見たまま』文藝春秋、1972年、136-137頁。)
北京市の西北郊に頤和園という大きな公園がある。昆明湖という人造のかなり大きな湖水をかかえた風光まことにうるわしいところだ。ここの丘陵は万寿山という。梅原龍三郎の絵に描かれているあの万寿山である。仁寿殿、徳和園、仏香閣、銅亭、排雲殿、画中遊、石肪その他、数多い建造物がたち、丘あり、水あり、花あり、樹ありの大きな公園である。これは清朝の遺跡で、西太后が別荘としていたところなのである。現在でも施設はありしながらの状態で保存され、建物のきらびやかな彩色なども、ていねいに修復されている。夏になると、最高で日に十九万人もの人が遊びに集まってくるという。私たちが訪れたのは冬のさなかだったので、樹木も花も枯れていたが、それでもじつにたくさんの人々が散歩し、写真をとり、売店の菓子や土産物にむらがっていた。
この頤和園の、昆明湖の波うちぎわに接するところに、東西に長い長い渡り廊下がある。その名を長廊という。幅三メートルほどの石の廊下である。ここを、かつて西太后は輦(れん:人の引く車)に乗って往き来したのだそうである。「ところが」と中国の人はいった、「江青はですね、ここを騎馬で通ったのです。女皇帝になったつもりで、西太后のむこうを張ったわけです」。(中略)「江青はですね、夏ここを別荘にして使ったんです。ところがあたりの鳥の鳴き声がうるさいというので、人々に鳥を追払わせたんですよ。また、園内の管理にあたっている工作員(従業員)たちも、自分が滞在しているあいだは、うるさいからそれぞれの部署にじっとして、出歩くな、と命令されたんです。もちろん、遊びにやってくる一般民衆は、彼女の滞在中は入園できませんでした」何とも理解しがたいという思いが、こういう話を聞くと湧きあがる。全体にひどく子供じみ話のようである。しかしそれが現実にあった話だというのだ。
(杉森久英『中国見たまま』文藝春秋、1972年、129-130頁。)