昭和文学で旅する北京
林芙美子
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1903年〜1951年
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ジャンル: 小説家
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出身:山口県下関市田中町
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林芙美子は、苦学の末、尾道高女を卒業。単身上京し、職を転々としながら文学を志す。昭和三年(1928年)に「放浪記」を発表、出世作となる。庶民の生活を題材にした自伝的作品が多い。著作「晩菊」「浮雲」「めし」など。
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中国との関わり:林芙美子は生涯八回中国への旅をした。
①1930年8月20日~9月25日 『放浪記』 の印税でハルビン、 長春、 奉天、撫順、金州、 三十里堡、 大連、青島、上海、杭州 蘇州等を旅行した。
②1931年11月~昭和7年6月。 朝鮮、満州、シベリヤ経由で渡欧、 主としてパリに滞在。
③1932年7月。 ヨーロッパからの帰途、上海で魯迅と会う。
④ 1936年10月。 自費で満州、山海関、北平へ、 スケッチ旅行中の夫手塚緑敏と北平で交流。
⑤1937年12月~昭和13年1月。 南京視察旅行。 南京陥落に際し、 「東京日日新聞」 (現 「毎日新聞」) 特派員として上海、南京へ。
⑥ 1938年9月~12月。「漢口一番乗り」。内閣情報部 「ペン部隊」の一員として上海、漢口へ。
⑦ 1940年1月5日~2月3日。北満旅行。 安東、長春、牡丹江、佳木斯、 宝清、綾芬河などを回る。
⑧ 1941年9月。満州国建国10周年に際し、銃後文芸奉公隊の一員として満州へ慰問講演旅行。
王有紅「『中国之旅』―中国語の新発見資料をめぐって―」『総合学術研究紀要』21(1)、2019を参考。
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北京紀行:「私の紀行」(1939年)
林芙美子と北京
三木君の案內で、ホテルの近くの紫禁城や、北海公園や前門の向うの天壇などか見物して步いた。紫禁城の建築は、見物して步いてゐるうちに、初めは朱の壁、黃琉璃の屋根瓦、幾重にもめぐらされた城壁の壯大さに、歡喜するばかりに驚いてゐたが、軈(やがて)て段々この廢物にもひとしき、紫禁城に、反感をすら抱くやうになり、こけおどしな、王道の碑のやうな、此建物も、いたつらに草の生えるに歸したことはあたりまへだと云ふ氣持だった。全く迷宮とはこの紫禁城を指して云ふべきだらう。紫禁城の近くの北海公園にある、喇嘛白塔の上から故宮の上を眺めると、波を打つ黃琉璃の屋根瓦が、黃昏に染まって、云ひやうのない輝きを放ち、壯觀である。庭と云ふ庭は磚(チヨワン:原文ママ)と云つて、石疊が敷いてあるが、磚の閒から、茫々と雜草が生ひ繁つてゐて、もう全くの廢墟だ。
(林芙美子『私の紀行』新潮社、1939年、284-285頁。)
雜草も一本一本氣持わるく見えてる前門街を通り拔けて天壇へも行ってみた。天壇とはいったい何だらうと思つてゐたが、何のことはない大理石で造つた壇である。冬至の日に天神を迎へる祭壇を、ぽつんと造つておくのでは曲がないのか八十萬坪の土地を土塀で圍ひ、園內には紫琉璃瓦の祈年殿とか、皇乾殿とかがある。庭には柏樹を樹ゑ込んで仲々豪華な壇だ。歷史家には興味のある建築には違ひないだらうが、小さな泥の家に住む住民達は、その頃、どんな思ひで、よりつけもしない、この豪華な祭壇を考へてゐたのだらう。永樂年間に建てられたと云ふが、人間の夢想もこゝまで來れば手を放つて呆れるばかりである。
(林芙美子『私の紀行』新潮社、1939年、285頁。)
北海公園では、夾竹桃や、柳や石榴、白松などの樹を見た。白松と云ふのは樹皮から粉をふいて幹が白く、柔かい色をしてゐて好きな樹だった。--白塔の高い壇の上から四圍を眺めると、紫禁城の右手向うには北京飯店や、ロックフヱーラアの寄附で出來たと云ふ大した建物の協和醫院が見える。疲れたので白塔の下にある茶店で茶を飮みながら、北海の湖上を眺めてゐると、靑い空の上をぶんぶん唸つて、日本の飛行機が飛んでゐた。私の傍に茶を飮みながら、本を讀んでゐた黑眼鏡の一學生は、暫く本を卓上に置いて、空を見上げてゐたが、軈て私の方へ向いて、咽喉佛の見えるやうなまた靜かに本を讀み始めた。
靑い綿服の靑年達が、方々の椅子へ集つて、面白さらに西瓜の種を器用に齒で割つて話しあってゐ流。靑年達は仲々たくましく元氣である。何を話し合つてゐるのか判らないが、それぞれり々しい表情だつた。
(林芙美子『私の紀行』新潮社、1939年、285−286頁。)
長城・角山寺
九時頃、長城へ登る支度をして、朝鮮人の案內人を賴み、私はロバへ乘つて萬里の長城へ向った。萬里の長城へ行くには、南門を拔けて城內をつゞく切つて行くのだけれども、これは愉しい眺めだつた。こは私の通って來た大連や、奉天なんかと違つて、日本人も少ないし、全く支那の國境の町だ。(中略)
山の上の角山寺へ着いたのは十一時頃だったらう。椀(わん)のやうな帽子をかぶつた老僧と、二三人の若い百姓が、荒れた寺の庫裡で日向ぼつこ(ひなたに出て暖まること)をしてゐた。南畫にある寺そつくりで、何と云ふ木なのか、石榴に似た木の上では、季節はづれな蝉の聲がしてゐた。宿で持たしてくれた握飯のうまかつたこと、男が口をあけて見てゐるので、それを一つづゝ分けてたべる。ラムネも賣つてゐたが、陽に透かしてみると濁つてゐた。飯が濟むと、老僧はだるまの繪を見せて買はないかと云つたが、欲しくもないだつたので買はなかつた。こゝの裏山から萬里の長城の一部が見えたが、只、驚くばかりだ。東は渤海岸の山海關の海邊から、西は甘肅省の嘉峪關へ及ぶと云ふのだから、これはもう大した土木工事と云はなければならない。秦の始皇帝の遺業だと云ふが、始皇帝だけの時代では、とてもこの百分の一もおぼつかなかつたのではないだらうか。兎に角壁の高さ三十尺、厚さ二十五尺の山の壁なのだから、始皇帝の夢想にしては、大きすぎる仕事である。ピラミッドやスフインクスの比どころではない。始皇帝は偉大なロマンチストだったらうと、私は山を降りるのを忘れて、うねり續いてゐる長城の果てまでも眺める氣持だつた。
(林芙美子『私の紀行』新潮社、1939年、279−280頁。)
西太后の住んでゐたと云ふ、郊外の萬壽山へも行ったが、私には愉しい景色ではなかつた。それよりも、夕方八時頃の前門街を步くのが好きだつた。まるで鷄小舍をひつくりかへしたやうな賑やかさだ。乞食が、石疊に血の出るほど頭をうつつけていくばくかの金をせがみに來る。東洋俥に乘つてるると、何時までも泣きごとを云つて乞食が走つて來る。
(林芙美子『私の紀行』新潮社、1939年、292頁。)