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昭和文学で旅する北京
中野重治
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1902年〜1979年
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ジャンル: 小説家・詩人・評論家
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出身:福井県
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明治35年1月25日生まれ。大正15年堀辰雄らと「驢馬(ろば)」を創刊。日本プロレタリア芸術連盟やナップにくわわる。昭和6年共産党にはいるが,のち転向。10年の「村の家」は転向文学の代表的作品。戦後,蔵原惟人(これひと)らと新日本文学会を結成。20年再入党して22年参議院議員。同年の「五勺の酒」で天皇制と天皇の問題をえがく。39年党を除名された。44年野間文芸賞の「甲乙丙丁」は政治と文学の問題を追究した大作。昭和54年8月24日死去。77歳。作品はほかに「むらぎも」「梨の花」など。
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中国との関わり:編集中
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北京紀行:「中国の旅」(1960年)
中野重治と北京
魯迅の北京の家を見たのは十一月一日の日で、その日北京はまつたくよく晴れていた。私たちは魯迅博物館の方へさきにはいつて行つた。小学生初級中学生、その他が一ぱいになつていろいろの遺物を見ていた。手帳を出して何か一心に書きこんでいるものもいた。私たちはそこで小林多喜二の写真がかけてあるのを見た。小林が殺されたときの魯迅の言葉もむろんかかつていた。私たちはそこで小さな発見をもした。ひとつは、説明の言葉に二と三との間違いがあるという小さなことだつた。小林の殺された年がひとつの説明では一九三二年となつていた。私たちはそのことを博物館の人に伝えてもらうようにした。もうひとつは、小林が死んだとき、中国の文学者たちが小林の遺族のために募金をした事実を知つたことだつた。これは、発見というよりは初めて知つたという方がむろん正しい。「為横死之小林遺族葬捐啓」というのはその主意書といつたものにあたるのだろう。発起人として九人の名が並んでいた。
(中野重治『中国の旅』筑摩書房、1960年、231-232頁。)
一行が北京で故宮を見に行つたとき、そこの境内で映画撮影をやつていた。(中略)私はこの方が珍しくて、見当つかぬまま眺めていたが話はわからない。(中略)何となく私は見まわしてみた。そしてひとりの青年の目にぶつかつた。美しい青年で、黒い目で私を見ているように私に見える。「日本の方ですか。」とその青年が日本語で問いかける。
「ええ、日本人です。」と私が答える。
「これは......」と青年がいう、「中国とフランスの合作映画です。これは練習です。」
(中略)
「これは、何をやるんですか。どんな話ですか。」
「フンジュン」といつたように聞えたがよくわからない。私はきき返した。
(中略)
青年が腕を動かすようにして、私がもう一度手帳を青年にわたすと、そこへ鳥のような恰好が描かれてきた。
(中略)
「あ、タコですか。」
「タコ、タコ、タコです。」しかしタコを、何で「風箏」というのだろう。しかしそれは面倒になる・・・・・・とにかくこういうことがあつた。人の大勢いる前でのことだつた。青年のいうには、この人たちの全部が正規の俳優なのではない、正規の人は二、三人で、これは中国では「演員」という。(この「演員」というのも文字で書いてくれた。)残りは学生で、映画俳優学校の学生ということらしかつたが、正確にはわからなかつた。青年にお礼をいつてしばらくして私たちは別れた。
(中野重治『中国の旅』筑摩書房、1960年、62-64頁。)
八宝山革命公墓
北京に十日以上もいて、私はスメドレーの墓へ行くのをすつかり忘れていたのだつた。(中略)ところが、そのうちスメドレーの「偉大なる道―朱徳の生涯とその時代――」が『世界』にのり始めた。阿部知二が翻訳者だつた。やがてそれが本の形になつた。その下巻は一九五五年六月に出た。それには阿部の「スメドレーの墓」という文章がついていた。そのなかにはこういてあつた。
「その車は西郊に向つた。明るくておだやかな秋日和であつた。北京西郊の、北の方は文教地区で、多数の大学や研究所が建ち、また建ちつつあるが、いま走つている南の方では、政府諸機関の建設が、ひろい野いつぱいに行われていた。私たちは、たんたんたる幅広い道を走つて、その地区をぬけた。驢馬をひく村人や自転車の村人などにたずねて、ようやく部落の裏手に、八宝山の革命公墓があるということがわかつた。」
(中略)私は、あの墓のことを日本で初めて書いたのは私だと思つていたが、それは今でも思つていないことはないが、しかしまちがつたことを小説ではあつても私が書いていたのだつた。だから私はその墓をひと目見ておかねばならぬと思つていた。それはずつと長く思つていた。やつと北京へくることができて、すると私はすつかりそれを忘れてしまつていた。どこへ行きたいか、どこを見たいか、見たいところはどこでも見せるといわれたとき、私の頭からスメドレーの墓のことは完全に消えていた。そし北京を去ることになつた。そして汽車が動きだした途端にそれを思いだしたのだつた。
(中野重治『中国の旅』筑摩書房、1960年、136-137頁。)
北京にきて四、五日するうちには何となく私にも見当がついてきた。何の見当がついたでもないが何となくそんな気になつてくる。ひとりで街をぶらついてみたいな――そんな気にもなつてくる。そこで地図をひろげて見たがこれがよくわからない。(中略)下に索引のようなものがついているのを辿つて行くとそこに瑠璃廠という名が出てきた。栄宝斎という名も見えてきた。これは聞いたことがある。がらくた屋のあるところだろう。絵本なんかを売ている店だろう。地図でしらべると遠くもない。そこで本多秋五に口をかけると彼も行きたいという。そんなことから、つまり実に私がきつかけをつくつてみんなで栄宝斎へ行くことになつた。いずれは行つたにちがいないが、とにかく事実としてはそうだつたものだから、僕はのろまで諸君に迷惑ばかりかけているが、全くそうばかりでもないことをこれで認めるかというとそれは認めると本多いつた。必ずしもしぶしぶとではなかつたと思う。
(中略)国立の本屋というのは大きい。藝術や哲学の本の本屋、自然科学や技術の本の本屋、子供のための本の本屋、そんなのが別々になつていて、ひとつひとつが随分大きいのが全国の都市にずらりと並んだものらしい。つまり全国に本屋の網の目ができたのだろう。
(中野重治『中国の旅』筑摩書房、1960年、241-242頁。)